【大学受験】勉強がつらい、合格できるか不安というあなたへ【応援メッセージ】

受験勉強がつらい、いつも不安、モチベーションがあがらないという受験生は多いと思います。

自分で選んだ道でありながら、不安になったり、迷いが生じたりするものです。

ボクも受験生時代はそうでした。

「このペースで勉強を続けていて、いつ合格レベルに達するんだろう」という不安や「まわりの受験生より成長スピードが遅いんじゃないかな」という劣等感をいつも抱えながら、予備校に通っていました。

この記事を読んでいるということは、もしかしたらあなたも同じような悩みを抱えているのかもしれませんね。

今回はそんなあなたに、ボクからの応援の意味も込めてメッセージを送ります。

ちょっとした空き時間に、ちょっとした読み物ぐらいの感覚で読んでみてください。

アシスタント

この記事は、次のような方におすすめです。

  • 受験勉強がつらくて、逃げだしたくなる時がある。
  • 合格できるのかいつも不安で、勉強に集中できない。
  • 頑張らなきゃいけないことはわかってるけど、モチベーションが上がらない。
  • 毎日勉強しているのに、成長しているように思えない。
  • ときどき何のために受験勉強をしているのか、わからなくなることがある。

この記事を書いた人

ヒラク

TOMOSU BLOG 運営者・執筆者

地方の公立高校から一浪の後、早稲田大学政治経済学部政治学科合格

目次

「不安」との向き合い方

受験勉強の期間中、いつも付きまとうのが、「自分は合格できるのだろうか?」という不安だと思います。

ボク自身も受験生時代には、いつもこの不安と向き合いながら、勉強に取り組んでいました。

今、社会に出ていろいろと経験を重ね、またさまざまな本を読んで、自分なりに「不安との向き合い方」について大切にしている考え方があるので紹介します。

まず、「人間は常に不安を抱えている生き物である」ということです。

受験生時代には「合格できるだろうか」という不安を抱えていますが、社会人になったら「新しい部署でうまくやっていけるかな」「今の収入で子供たちを育てあげることができるかな」などと新しい不安がやってきます。

そして、きっと年老いたころには新たな不安を抱えていることだろうと思います。

もっといえば、人間は原始時代から不安とともに生きてきたのです。

ボーっとしてたら、他の動物に攻撃を受けることがあるわけですから、「油断してたら命を落とすかもしれない」という不安を常に持っていたのです。

不安感を持たない、あるいは少ししか持っていない人間は、実際に他の動物に襲われて滅びていき、強い不安感を持った人間だけが生き残ったわけです。

その子孫があなたであり、ボクであるので、不安を抱えながら生きていくのは宿命といってよいのではないでしょうか。DNAに「不安を感じろ!」と刻み込まれているのですから。

だから、「不安を消そう」としてもムダだと思いますし、「不安に立ち向かうぞ」という姿勢もあまりよい方法だとは思いません。

もし仮に「合格できるだろうか」という不安を消したとしても、「合格したとして、大学でうまいことやっていけるだろうか」といった別の不安がやってきます。

ですから、あなたが抱えている不安は不安のままで持っておいてよいのです。

ボクが大事だと思うのは、「不安との距離感」です。もっと言うと、「不安の内側ではなく、不安の外側にいる」ということです。

不安の内側にいるというのは、不安に飲み込まれている状態です。あなたもこれまでの人生で経験があるかもしれませんが、不安に飲み込まれると、何も手につかなくなります。勉強どころではなくなってしまうのです。

そこで、大事なのが「不安の外側にいる」ということです。

自分が抱えている不安を「外から眺めている」「客観的に見ている」状態と言えばよいでしょうか。

「あぁ自分は今、こんな不安をかかえてるんだな」と遠くから、まるで他人事のように眺めておくのです。

そうすれば、不安に飲み込まれることはないですし、「不安をゼロにしよう!」と躍起になる必要もありません。

「じゃあ、どうすれば不安の外側にいられるの?」ということですが、ボクが実践していた(今も実践している)ことを紹介します。

それは、自分の努力を「見える化」「感じられる化」することです。

例えばボクは、英単語を書いて覚えていました。科学的に正しい方法ではないかもしれませんが、当時の自分は「見るだけの学習」は効果が薄いと感じていたので、単語を見て、発音して、書いていくという暗記法をとっていました。

B5のレポート帳にひたすら単語を書きていきます。表だけではなく、裏ページにも書いていきます。

そうすると、レポート帳が1冊、また1冊と積みあがっていくわけです。

こうして、自分の頑張りを形として目に見えるようにしていくと、不安が勝手に遠ざかっていきます。

「こんなに頑張ってるんだな」という充実感の中に身を置くことができるのです。

それと同じように、自分の努力を「感じられる化」することも有効だと思います。

サッカー選手・実業家として有名な本田圭佑さんは次のようにツイートしています。

本田さんのようなすごい方に自分をなぞらえるのは気が引けますが、ボクも同じ感覚です。

1日の最後、布団に入って眠りにつく前に、「あぁ今日も1日やり切った、昨日より成長できたぞ」と思えるように過ごしています。

そうして、毎日心地よい疲労感の中で眠りにつくことで、自分の不安を遠くから眺めることができるのです。

受験勉強には不安がつきものです。ですので、「不安にコントロールされる」のではなく「不安をコントロールする」という状態を目指すとよいのではないでしょうか。

ヒラク

不安は消えない。だから、今日1日を精一杯やることだけ考える。

とある受験生

目の前の一瞬を積み重ねることしかないですもんね。

あなたが感じている「つらい」の正体

ボクは受験生時代、成績が合格レベルに近づくにつれ、勉強がとても楽しくなっていったことを覚えています。

毎日、予備校の自習室にこもり努力を重ねる。その努力が目に見えて成績アップにつながっていく。そんな自分の成長を感じることのできる日々は、とても充実していました。

それでも苦しい時期がまったく無かったわけではありません。

受験勉強に取り組みはじめた頃がそうでした。昨日やった英単語を半分も覚えていない自分にガッカリして、「やっぱり早稲田なんて俺には無理なんじゃないだろうか」と何度も思いました。

つまるところ、「これだけ勉強したからこれだけ成長してるだろう」という理想の成長スピードに、現実の自分がまったく追いつけないことが苦しかったのだろうと思います。あなたも一度はこういう経験をしたことがあるでしょう。

けど、それもはじめの数カ月だけでした。基本を徹底した1学期と夏期講習を終えると、2学期には自分でもビックリするくらい問題が解けるようになっていました。

そこからは、毎日が楽しくて、「問題が解けるから楽しい→もっと勉強しよう→さらに問題が解けるようになってる!→もっともっと!」というループに入って、成績もグングンあがっていきました。

成長ということについて、ボクの好きなハナシがありますので紹介します。

中国の竹には、種を蒔いてから4年間、はじめに小さな芽が出るだけで、あとは何ひとつ成長が見られないものがある。その4年間成長はすべて地面の中。土の中に深く、その根を張っているのだ。

そして5年目、その竹は一気に25メートルも伸びる。

うれしいことに人生は、この竹に似ていることが多い。

まじめに働き、時間とエネルギーを注ぎ、成長するために、ありとあらゆる努力をする。数週間、数か月、あるいは数年間、何も成長が見えてこない時もある。

そこであきらめることなく、忍耐強く努力を続けていれば、竹のように5年目はやってくるのだ。

土の中に根を張る作業は地味です。誰の目にも見えない。自分自身ですら見えなくなってしまうときがある。けど、それこそが受験勉強なのです。

この記事を読んでいるということは、あなたは今、苦しいのかもしれない。自分の成長が感じられなくて、不安でいっぱいなのかもしれない。

けど、そんな中で努力を続けていれば、必ずいっきに伸びる瞬間がやってきます。それは、あなたも例外ではないのです。

ヒラク

成長を感じられず不安になるとき、あなたはもう成長の階段を上りはじめています。

とある受験生

上りはじめが一番苦しいのかもしれませんね。

「苦しさ」の先にあるもの

受験生であるあなたにとって、「頑張る」とはどういうことでしょうか。

おそらく、ほとんどの場合「苦しい」ものだと思います。

友達と遊びに出かけたい、家でYoutubeを見ながらゴロゴロしたい。しかし、受験勉強の存在があなたの「楽しい」の前に立ちはだかり、「苦しい」をもたらしていることでしょう。

けれど、頑張ることって「苦しいこと」なのでしょうか。「頑張る=楽しい」にすることはできないのでしょうか。

ここでは、「頑張ること=苦しいこと」という認識を持っているあなたへのアドバイスを送ります。

ベストセラーとなった「夢をかなえるゾウ」シリーズ。その中で「夢をかなえるゾウ3」には、頑張ることから逃げ続けてきた主人公が登場します。

ある日、その主人公のもとに、関西弁をしゃべるインドの神様「ガネーシャ」が舞い降ります。

努力することから逃げてきた主人公が「ガネーシャ」の出す課題をこなしていくうちに、頑張ることの素晴らしさに目覚めていく、というストーリーです。

ガネーシャが主人公に対して次のように語りかけるシーンがあります。

「自分らは努力を始めるとき、『我慢』から入るやろ。痩せるためには食べたい気持ちを我慢せなあかんとか、勉強するときには、遊びに行きたいのを我慢せなあかんとか…でもな、自分の行動をコントロールするために必要なんは、楽しいことを我慢するんやのうて『もっと楽しいことを想像すること』やねん」

『夢をかなえるゾウ3』より引用

「苦しみを楽しみに変えるにはな、苦しみを乗り越えたときに手に入れられる『楽しみ』を考え尽くさなあかん。そんで、苦しみを超える量の楽しみを見出したとき、苦しみは楽しみに変わんねんで」

『夢をかなえるゾウ3』より引用

ボクは受験生時代、苦しみの先にある「楽しみ」を自然とイメージできていました。

ガネーシャの言っていることを自然と実行できていたのです。

あなたも、大学受験の先にある「楽しみ」を想像してみてください。

どんなことでもかまいません。

「音楽が好きだからバンド活動を始めてみよう」「かっこいい彼氏をつくって、いろんなとこに遊びに行こう」「憧れの大学であのサークルに入って、あのゼミをとって、バイトはこれをして………」などなど、思いつく限り、紙に書き出してみてください。

あなたが「苦しい」と思っている受験勉強は、そんな「楽しみ」につながっているのです。

ヒラク

ボクは「早稲田に通ってるイケてる自分」を夜な夜な想像してました。グフフ。

とある受験生

なんかキモい…。

「不合理」を味わう

先日、ある落語家の男性が、元師匠から暴力・暴言によるハラスメントを受けたとして、その元師匠を相手に訴えを提起しました。

地方裁判所は、元師匠が行った言動の一部について「暴行を伴う苛烈な叱責を加えるという社会的に許容される範囲を逸脱したもの」とし、パワハラを認定しました。

落語の世界は娯楽・エンタメとしての側面がある一方で、外部の人間には中の世界がよく見えない、閉鎖的な社会です。

その閉鎖的な人間関係の中で、師匠が弟子を罵ったり、理不尽な扱いをしたりということは珍しいことではないようです。

例えば、あるYouTube動画では、古今亭文菊という落語家が自らの弟子時代を振り返り、師匠から毎日罵詈雑言を浴びせられ、苦しい日々を過ごしたことを語っています。

ただ座っているだけで罵られる。人前で罵倒される。人間以下だという扱いを受ける。

訴えを起こした男性と同じように、師匠から来る日も来る日もキツイ言葉を浴びせられていたそうです。

ですが、文菊さんは10年間の弟子としての苦しい生活に耐え、真打に昇進。今では現代落語きっての実力者と言われています。

文菊さんは動画の中で、「自分の存在ごと否定されるという苦しさを味わわないと、古典落語の空気感は出せない」と語り、師匠への感謝・尊敬の言葉を述べています。

余談ですが、ボクは落語が好きで、よく寄席に落語を聴きに出かけます。

今でもハッキリと覚えているのですが、初めて寄席に行ったとき、ひとりだけ、素人が聴いていても「ウマいなぁ」と感じさせる落語家がいました。

それが、古今亭文菊さん、その人でした。

彼の落語には、「死ぬほど苦しい思いをした」という人間にしか出せない「何か」があるのでしょう。

さて、この2人(訴えを起こした男性と古今亭文菊さん)が置かれていた状況は極めてよく似ています。

2人とも不合理な状況に置かれ、精神的な苦痛を味わったという共通点がありますよね。

では、この2人の間で異なる点はどこでしょうか?

それは、自分の身に降りかかってきた「不合理」の受け止め方です。

一人は、師匠の行為を、ただ単純に「不合理」としてだけ認識し、明確に拒絶しています。

その一方で、もう一人は「不合理」を受け容れ、自分の成長の糧にしています。

当然、一般的な話としてハラスメント行為は許されませんし、2人の置かれた状況がまったく同じということはありえないので、同列に並べて語ってしまうのはムリがあるかもしれません。

度を過ぎた「不合理」にはしっかりと「NO」を突き付ける勇気も必要です。

ですが、人間が生きていく中で「不合理なこと」はいくらでもやってきます。

あげていくとキリがありませんが、受験勉強だってそうじゃないですか。

訴えを起こした男性は、「弟子にも基本的人権がある」と語ったそうですが、日本という国で生きる以上、誰にだって基本的人権はあります。

基本的人権から考えると、誰もが「自分が学びたい大学で学ぶ権利」があってもいいはずですよね。

けれど、現在の制度では、試験を受けて一定の点数を取った人間しか望んだ大学に入ることは許されません。

その中で、ある家庭の子供は一流の塾・予備校に通い、経済的に厳しい家庭の子供はそれができないという「さらなる不合理」が生まれてしまいます。

受験自体が受験生の身に降りかかる「不合理」であると同時に、受験という「不合理」がさらに多くの「不合理」を生み出しているわけです。

不合理だらけの枠組みの中で、「不合理」を「不合理」としてだけ受け止めるか。それとも、「不合理」を自分の成長の糧にするか。

「不合理」を拒絶し、受験というレールから降りる権利もあります。

「不合理」を受け容れ、自分の成長につなげる機会にすることもできます。

先ほど、古今亭文菊さんの落語について、「『死ぬほど苦しい思いをした』という人間にしか出せない『何か』がある」と言いました。

ひとつだけ、ボクからあなたにアドバイスしておきたいのは、「不合理」を拒絶してばかりいると、その先にある「何か」にも一生巡り会えないということです。

どちらを選ぶかは、あなた次第です。

とある受験生

受験勉強という「不合理」の受け止め方は自分次第ですね。

ヒラク

世の中は「不合理」だらけ。「不合理」の中に、自分を成長させてくれる要素を探すことも大切なのではないでしょうか。

「受験勉強なんか社会に出たら何の役にも立たない」に対するボクの答え

この記事を読んでくれているあなたが、今、受験勉強のどのポイントにいるのかはわかりません。

これからはじめるという人もいれば、折り返し地点を過ぎたという人、試験直前の人など、さまざまでしょう。

どんな段階の人であれ、「受験勉強なんか将来、役に立つのかな」と思っている方は多いのではないでしょうか。

ここでは、そんなあなたに伝えたいことをまとめてみました。

例えばボクは、受験生時代、あんなに一生懸命勉強して覚えた古文の単語の活用形を、今ではすっかり忘れてしまいました。必死になって覚えた鎌倉幕府の将軍・執権や日本の歴代総理大臣もところどころしか覚えていません。

受験生時代の「知識」は、ほとんど消えてしまいました。

「じゃあ何が残ってるの?」ということですが、それは「経験」です。

具体的に説明します。

社会人になってからも、「何かを覚える」という作業は常についてまわります。

「今度から導入される仕事の手順を覚えよう」「新規の仕事のために、この知識が必要だ」といった感じで、試験はありませんが、勉強はいつでもやらなければいけません。

特に今の時代は働き方が多様化しています。「新たな知識・スキル」を身につけていくことは性別・年齢を問わず、多くの人が経験しています。

ボク自身も日々こうした経験をしますが、いつも「あぁ、受験勉強を一生懸命やっといてよかった」と思うのです。

何かを覚える、何らかの知識を身につけるというときに、「これはおおまかにこういう風に勉強していくと効率がいいな」とか、「この知識を身につけるうえで基礎になるのはこの部分だな」というのがわかるのです。

このときに、ボクが周りの人間よりも早く知識を身につけると、「あいつはアタマいいからな」「早稲田だから」とよく言われます。

しかし、これはアタマの良い悪いの問題ではありません。「経験」を積んでいるか、積んでいないか、なのです。

受験生時代、悪戦苦闘しながら自分なりの勉強方法を確立させました。そして、ボクの場合は主に英語の勉強を通じてつかんだ勉強法が今でも役立っています。

学生時代に部活を一生懸命やっていた人間は、社会に出てから使える人材だと耳にしたことがありませんか?

礼儀やマナーの面でそう言われることが多いようですが、ボクはもうひとつ理由があると思っています。

例えば、野球部だった人は、野球とは全然つながりのない仕事に就いたとしても、その仕事をどういう風に「練習」すれば上達するのかを、学生の時の「経験」を通じてすでに知っているのです。

ボールを速く投げたり、遠くに飛ばしたりというひとつひとつのスキルは役に立たなくなりますが、そのスキルを身につけるために試行錯誤したことが、「経験」として社会人になってからも使えるのです。

勉強だって同じです。

英語も、数学も、物理も、個々のスキルは直接役に立つことはありません。「漢文で習ったレ点で返り読みするスキル、まじ役立つなー」なんてこと、ボクは1度もありません。(笑)

けど「経験」はいつまでも自分の体の中に残っていて、いつまでも自分を助けてくれるのです。

大人の中には、「受験勉強なんか社会に出たら何の役にも立たない」という人がいますよね。

ボクはそんな人を見たら、「あぁ、この人は若い時に勉強もスポーツも本気でやったことがないんだな」って心の中で思うのです。

「不合理」を拒絶した人たちです。

若い時に一生懸命努力を重ねた経験のある人間は、他人の重ねた努力を否定するようなことは言いません。

勉強であれ、スポーツであれ、不安と向き合い、苦しさを乗り越えた経験を持っている人間は、その不安・苦しさの味を知っています。

人の努力を否定するような人間になってしまったのは、その人自身が「知らない」からなのです。

人生における「不合理」の意味を、若い時に理解しないまま大人になってしまった。そして、大人になってからも、世の中の「不合理」に文句を言うだけ。それを乗り越えようという努力はしない。

自分が努力しなかったことを覆い隠すために、必死で「不合理」を悪者にしようとします。

自分を正当化するために、「不合理に立ち向かった人」を貶めようとします。

ボクはそんな人をイヤというほど見てきました。

特に受験勉強だったり、有名大学出身者は、そういう人たちにとってターゲットにしやすいみたいですね。

これからの時代、知識の価値はどんどん下がっていくでしょう。「知識を蓄積する」という点において、人間はGoogleやAIには勝てっこありません。わからないことがあったら、Googleが秒で教えてくれます。

そういう意味では「受験勉強なんか役に立たない」とも言えるでしょう。

ですが、「経験」はGoogleもAIも教えてくれません。勉強なり、スポーツなりを必死でやった人間にしかわからないことなのです。

このことに関して、筑波大学准教授で研究者の落合陽一さんは次のように語っています。

コンテンツ(ボクの言う漢文のレ点で返り読みするやつ)を社会に出て使わないからと言って、トレーニング(ボクの言う受験勉強に取り組むこと)をやらないでいいということにはならない。

若いうちにトレーニングを積んでおかなければいけない、と言ってますよね。

受験勉強に取り組みながら、モチベーションがあがらない人。自分のやっている勉強に意義を見出せない人。とにかく不安な人。

ボクのアドバイスは「今、あなたが抱えてる苦しさの向こうに、頑張った人間しか知らない世界があるよ」ということです。

今はまだ、ピンと来ないかもしれません。

けれど、大人になって社会に出たときにわかるときが必ず来ます。いい大学に入るためでもなく、偏差値を上げるためでもなく、このために勉強したんだな、と。

あなたが今感じている「つらさ」は、「受験勉強なんか何の役にも立たない」と言う大人が味わうことのできなかった、この上なく貴重な「経験」です。

あなたが今感じている「不安」は、GoogleもAIも未来永劫、表現することのできない「経験」です。

ボクはあの時の「経験」が、自分を支えてくれていることを日々感じています。

そして、この歳になってもなお、苦しいことや逃げ出したくなるような「不合理」に直面したときには、19歳のあの時の自分が、自習室にこもって単語帳と向き合っていた自分が、そっと背中を押してくれるのです。

とある受験生

大学合格のために勉強してるけど、結果ではなくプロセスの方が大切なのか…。

ヒラク

知識なんてどーでもいいんです。知識を得るために積み重ねた経験に、とんでもない価値があります。

まとめ:「感動」は自分で苦労して掴むしかない。

いかがだったでしょうか。

ボク自身の経験も踏まえながら、受験勉強で苦しんでいるあなたへの応援メッセージを綴ってみました。

長々と語ってしまいました。受験勉強で忙しい中、ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

最後にあなたに、ひとつの言葉を紹介して終わりにします。

目先の勝ち負けではではなく、競技そのものを究めていきたいという領域に入ると、どんどん楽しくなる。

でもその楽しさは、自分で苦労して掴んだ人にしかわからない。

ー小平奈緒(平昌オリンピック・女子スピードスケート500m金メダル)

今は苦しいかもしれません。

その中で、もがいてください。這いつくばって前に進んでください。

苦しさに向き合ったその先に、小平さんの言う「楽しさ」があります。

「受験勉強という目先の勝ち負けにとらわれている領域」から、「競技(受験生であれば勉強)そのものを究めていきたいという領域」へと進むと、「感動」があなたを待っています。

一日中勉強して、ヘトヘトになって布団に入ったときに「自分ってこんなに頑張れるんだな」という「感動」を味わいながら眠りにつく。

人生においてこんなに楽しくて、こんなに幸せなことはありません。

ボクは早稲田大学政治経済学部の合格発表の日、西早稲田キャンパスまで出かけて、合格掲示板の中に自分の受験番号を見つけました。

そのとき、ボクの心の中に湧きあがってきた感情は「喜び」ではありませんでした。

「あぁ浪人生活が終わるんだ。感動を味わうことのできる日々がもう終わったんだ」という寂しさでした。

「感動」を掴むには、苦しさと向き合わなければならない。不合理を乗り越えていくしかない。

受験へ向けて頑張るあなたへ。

心からの敬意と、精一杯の声援を送ります。

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